食べ物と私

食べます。

気落ち、独りの焼うどん

午後9時。

やっと色々な事がひと段落してコンビニへ向かう。

 

ずっと頭が重い感じがする。

疲れているのかとも思うが、最近は何をしているわけでもない。

忙しさとは別れているはずなのに、どうしてか休まった気がしない。

私は今疲れているのだろうか。それすらよく分からない。

 

眠くて、だるくて仕方がなかった。

お腹だって空いているのかそうでないのか、正直分からないところだ。

 

多分、少し落ちているだけだ。無理して引き上げる必要はないのだと思う。

 

でも元気が出ないのも苦痛なので、せめてエネルギーだけは摂取しておこうと、胃に合ったものを探す。

すると、目に入ったのは母の日の広告。

 

去年の夏。

私が追い詰められて、父と母に相談した時のこと。

文脈は読み取れなかったが、父に「今年の父の日には、何もメッセージが無くて寂しかったです」と言われたことを、じんわりと思い出した。

 

なんだかがっくりきたことを覚えている。

いつの間にか主語が私から父になっていて、いつの間にか責められている。

私だって、ここに来るまでが楽だったわけじゃない。

そんな中で私がこの決断に至ったということの背景すら考えることなく、父はそう言ったのだ。

 

なんとなく理解した。なんとなく、諦めた。

 

結局、美味しそうな焼うどんを片手に帰路に着く。

父や母についてよく思い出すのも、多分今調子が良くない証拠だと思う。

 

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コンビニで温めてもらった焼うどん。

帰ってすぐに食べられるのは嬉しかった。

名前の通り醤油がよく効いていて、野菜は甘くて、美味しい。

ズルズルと、一人の部屋で食べ進める。

 

エネルギーを蓄えようとしているのに、なんだかどんどん悲しくなっていく。摩耗していくような。静かだった。

原因はないのに、どこまでも落ちていってしまう。いけない、と思う。

こういう日は一人でどうにかするしかないことも、私はもう知っている。

 

誰かに何かを言う時は、私が言いたいからなのだ。

だから、数年前の父に言った「父の日ありがとう」も、私がしたかったからしたことで。強要されることじゃない。

 

それに、覚えている。

2年前、私が父の日にコーヒーメーカーを送った時、私は母にも、祖母にも、祖父にも、妹にも同様に贈り物をしたのだ。

 

だって、その当時は酷く死にたかったから。

 

別に自殺を本気で考えていたわけじゃない。

ただ、このまま生きていける気も全く持ってしなかった。

死ぬ前に何かいいことをしておこうと。

多分、贈り物には1㎎くらい、その気持ちが込められていた。

 

父は何も知らない。当たり前だ。

 

私のことを何も知らない人に、私がすり減らされていくのは腑に落ちない。

なあなあに過ごしていきたいと思う。ずっと独りで生きていけたらいいと思う。

そのために記憶ですら愛でられる強さが欲しいのに、攻撃性は止まないままだ。

 

どうすればいいのか、分からない。

どうすればいいのか、分からない。