静かな生活だ。
一日に6時間のノイズキャンセリング。
たまに真横を列車が通過していくけれど、その風景を私は思いの外気に入っている。
前の家のカーテンで覆うことが出来ないほどの広い窓。
窓辺の作業机はLEDを必要としなかった。
静かな生活だと思う。キーボードを叩く音すら聞こえない。
響くのは頭の中の声だけだ。
久しぶりに、なんだか綺麗な食事だと思った。色合いだろうか。
おさまりが良いだろうな、なんて思って写真をとってみたら、ふとこの場所を思い出した。
少し時間が経って、取り巻く環境はかなり変わった。
とにかくここは静かで、一人に限りなく近い場所だ。
多少の不安と寂しさ、そして新たな焦燥感。
相変わらず揉まれたままだが、198円のアボカドを変える余裕はあるし、それを消費する気力もある。
色々なことで溺れる瞬間はあれど、それでもきっと私は今、きちんと私で居ると思う。
コーヒーに正しい淹れ方とか、きちんとした洗濯物の干し方とか、国の制度とか株の話とか、そういうのを何一つ知らなくったって、きっと大人にはなれる。なれてしまう。
こんなもんか、と、何年先だって呑気に思っているような、一年先だって想像できないような。
他人が居なけれな自分が曖昧になってしまう。比較しなければ存在が分からない。
それが私達ではあるかもしれないけど、私にとっては不要な気がする。
捨てられるかどうかは別だけど。
溢れるものはあるけれど、上手く形に出来ないでいる。悔しい。
これは余裕のなさとも言えるし、きっとただの怠惰とも言えてしまう。
取捨選択するのは難しいと思う。
やりたいこと、やらなきゃいけないこと。
得なければならないもの、我慢しなきゃいけないこと。封じ手はいけないもの。
全部が濁流のように押し寄せると、つっかえたように何も出てこなくなってしまう。
そのまま目の前に視線を戻してしまえばきっと、知らないうちにつっかえたものは消化されてしまう。
諦め、なあなあ。
きっとそれは、私が私である上で大切な一部だったのに。
好きなことを好きなように。
それだけが、どうしてこんなに難しいのか。
こんな燻りだって、それでもきっと形にしていくしかないのだ。
選んで捨てて、決めた今の私が何も生めないのは、言い訳以外の何物でもない。
コーヒーを上手く淹れられる大人になりたいと思う。
上手く淹れられるけど、インスタントや淹れ方の拙いコーヒーも愛していたい。
きっとこれはわがままじゃないし、一人だから成し遂げられることでもある。
頭と心の退化を願いつつ、考えていたいと祈る。
静かな生活。