食べ物と私

食べます。

25歳になったら終わろうと思ってた

25歳になったら終わろうと思っていた。

 

春から夏にかけての過ごしやすい季節。

大学院に入ったばかり、当時22歳だった私は何もかもに辟易していた。

 

きっと社会では生きていけないと分かっていたから、居場所を作るためどうにか大学院に受かったものの、やっぱりそこは窮屈で。

でもこれからどこへ行こうとこの窮屈さが一生続くだろうということは、22年間生きてきて何となく分かっていた。

 

課題をこなしたり、いい成績をとったり、社会に出たり、お金を稼いだり、いい人になったり、いい家族を作ったり。

 

まだ22歳。

やらなければならないことは沢山あったけれど、なんだか想像するだけで息が出来ないような気がした。だってそのどれもが別にやりたいことではなかった。

 

私には欲しいものもやりたいことも、つまりは何の理由もなかった。

 

それでもまだ22歳。まだ22歳だ。

続いてしまえば人生は長い。あと3倍以上、下手したら4倍以上はある。

しかも若くて甘やかされてるのは、許されているのは今のうちで、どんどん体だって思うように動かなくなってくる。責任も増えるし悲しいことだってたくさん待ってる。

 

こんなところで悲鳴をあげていてどうするんだ。こんなところで死にたくなって、私は生きていけるのか。

あと10年、20年、30、40年。遠い、あまりにも遠い未来を、生きていけるのか、生きていかなくてはならないのか。

……本当に、そうなのか。

 

「25歳とかで、辞めてしまえばいいんじゃないか」

 

タイミングは忘れたが、ある日ふっとそう思った。

 

死にたがりは何もその時に始まったことではなかった。

 

中学、高校。

分からないけどそのあたりから私は悲しかったし、寂しかった。

 

じゃあ誰かがそばに居ればいいのか。誰かの一番になれたら私は幸せになれるのか。

 

試行錯誤、もがいてもみたけれど、そばに誰かが居たって泣きにくくなるだけで、泣かなくて済むわけじゃかった。

誰もかれも、もちろん私だって一番は自分だった。

 

そんなのならもう、本当に辞めてしまいたくて。

 

そう思っていたにも関わらず私が生きてきたのは、単純に死の瞬間の恐怖に耐え切れなかったからというのがひとつ。

 

私の何もかもを手放すことは惜しくない。ただ痛いのは怖い。単なる防衛本能だとしても、やはり死ぬことは怖かった。

もちろん、恐怖は生きる理由にはなってくれなかったけれど。

 

そしてもうひとつは、自死を選ぶにはここに居すぎてしまったこと。

 

それなりに知能が付くくらい大きくなってしまったし、知能が付いた分金も掛かってしまった。両親をはじめ、私は他者の世界に少しだけ足跡を付けてしまっていた。

たとえいずれ風化するとしても、その人たちが今すぐ私の足跡を手放してくれない限り、死ぬには少し後ろめたい。

ここが酷い場所だ知っている私が、良くしてくれた誰かにこれ以上苦しい思いを突きつけるわけにはいかなかった。

 

けれど、それは22歳の話だ。

 

25歳。あと3年。

死ぬ時の痛みがどうなのか。何もかもが消えてなくなる向こうの世界。

誰も知らない痛みとその後の無を、何度も何度もイメージする。怖いけれど、覚悟を決める。

難しいかもしれないけれど、きっと3年もあればある程度は折り合いをつけられると思った。

 

それに3年も疎遠にすれば、その死に対して誰かが負い目を感じることもなくなるかもしれない。

誰かにつけてしまった足跡だって、これだけ時間があれば生前にその深さを最低限に出来るのかもしれなかった。

 

そして3年後といえば、私は大学院を卒業して社会に出て、どこかで働いて1年経った頃。

そこまで頑張れば、少なくとも一般の優秀な人間として、責務は果たせるのではないか。

私を責め立てている誰かにも、もうきっと許してもらえるんじゃないか。

 

衝動的に軽々しく、あるいは何となく死にたくはなかった。

きちんと考えて考えて、ひとつの選択として死ぬことを選びたい。幸せになりたい。

いわば己の喪の作業だった。

 

とはいえ命日を決めたわけではない。

もし考え抜いた結果、答えが変わるのならそれでもよかった。

とにかく、真っ当な人間だとか社会的地位とかいい人だとか。

この泣きたくなるようなわけのわからない荷物を持つのはあと3年だけ。

3年経ったら消息不明になるなり死ぬなりなんなりすればいい。

 

25歳で終わらせよう、そのために準備をしておこうと、私は22歳の時に決めたのだ。

 

そして今日、私は25歳になった。

 

先に言うと、死ぬつもりはない。

というのも、残念ながら私は25歳まで我慢が出来なかったのだ。

 

自分の余命が3年と思い込んだ途端、わがままな私は「最期の3年までちゃんとする必要があるのか」と考えてしまった。

多分、長く生きなけらばならないこと自体が私にとっての大きな足かせになっていたのだと思う。

 

だからまだ22歳だったのに、私はさっそく大学院を辞めたいと教授に直談判しに行った。

1年生の前半、初期も初期だ。

けれどあと3年しか残されていないなら、大学院なんて全くもって行きたくなかった。

どうせあと3年で終わるのなら、卒業することで得られるメリットも私には関係ない。

結局、それはやりたいことではなかったのだ。

 

結局退学は叶わなかったものの、資格を諦めることでかなり負担を減らしてもらえた。

時間が手に入ってやりたいことが、息ができるようになった。

このブログを始めたのもおそらくこのタイミングだったと思う。

今こそ更新は少ないけど、私にとっては大切なことだった。

 

それから何だかんだ卒業して、会社には勤めなかった。

別にやりたい仕事、行きたい会社があるわけではなかったから。

不安がなかったと言えば嘘になる。

けれど一年経った今、社会に出なくてもどうにか稼いで一人で生きていけることを立証できた。

もちろん全然お金はないけれど、私はそれでもよかった。

 

今はいいだろうけど、職歴がなきゃ将来困るんじゃないの?

もっと貯金しておかないと老後大変だよ。

いとこが結婚したらしい。

近所の○○ちゃん、子供が2人目になるんだって。

 

決して投げやりになっているわけじゃない。

けれど、もういいのだ。

この先の長い不安は捨ててきた。将来のことを考える時間も、そして意味もない。

 

だってたった今死んだって、私にはもう悔いがない。

 

死ぬ気になれば何でもできる! という言葉は昔からあんまり好きじゃなかったけど、その通りかもなあと、今になって思う。

 

明日死ぬと本気で思い込めば、たとえば仕事をサボってサーティワンを食べにいくとか、将来のための貯金を放り出して会いたい人に会いに行くとか、そういうことが出来た。

きっと行きたくなかったあの日、学校だって休めたのかもしれない。

もちろん、最初からやりたいことを掬いだせる人も居るんだろうけど、私はそうじゃなかったから。

 

今、不安定ではあるけれど穏やかな場所を見つけて、作って、死に迫る必要はなくなった。

ただ、もう死にたくないかと言われると話はまた別だ。

 

幸せとは何なのか、生きててよかったと思える瞬間は来るのか。

誰の言うことが正しいのか、間違ってる感情がどれなのか、何が悪くて何が善で、常識とはなんなのか。

 

この歳になっても世の中のことは何ひとつ分からないし、これからも分からないのだと思う。

まだこの歳だからという考え方もあるかもしれないけど、これだけ生きたのにまだ? なんて気持ちにもなる。

 

早生まれも早生まれ。

最近はSNSで可哀想と呼ばれているのを見るし、生まれた時点から確かにちょっと、私は後ろの方に傾いていたのかもしれない。

 

あまり生に執着がないからか、寝なかったり食べなかったり、食べ過ぎたり病院や健康診断に行かなかったり。

希死念慮だって時々強く顔を出す日もある。

25歳になっても私はまだ、この世を去ることが一番の幸福だと疑っていない。

 

けど、総じて今の方が軽くもあるのだ。

 

独りよがりだと言われれば、そうだと思う。

こんな生き方や考え方じゃ、もしかしたらこの先ずっとひとりぼっちで、誰とも分かり合えることはないのかも。

甘えてるのかも。笑われちゃうかも。

あるいは、誰にも知られないまま。

 

それでも一番の幸福を諦めている私だから、生きている間は好き勝手していいと、私はそう信じている。

 

そんな自分勝手な私だけど、先日、バイト先からホールケーキをもらってしまった。

 

嬉しかった。

たとえ業務の一環だとしても、私のために買いに行って、選んでくれる人達がいること。

私はこんなにも独りなのに、諦めているのに、閉ざしているのに。

本当に、本当にありがたいことだと思う。

 

20代後半になった今、名前の書かれたチョコプレートをわくわくしながら口に運ぶ。

これだけ蛇行しているけれど、私はやっぱり小さい頃から何も変わってないのかもしれない。

分からないことは多いけど、バースデーケーキがずっと嬉しいことだけは確かだ。

 

だったらお葬式の時にもケーキを用意して欲しいなあ、なんて。

深夜。誰かに怒られそうな、でも私にとっては至極真っ当なことを思ってみるのだった。

 

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ひとりぼっちのロコモコ丼

実に半年ぶりくらいに米を炊いた。

 

随分前に実家から送られてきた米。

当時は新米だったはずのそれを、ちょっと心配しながら冷たい水で洗って、無印良品ロコモコを中心に色々と盛り付ける。

二十一時。ちょっと元気の出る時間だった。

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ここ数日、少し沈むことがあった。

 

浅い呼吸しかできなくなったのも、酷い焦燥感も、泣いたのも、刺したくなったのも、けれどやっぱり後処理が面倒で辞めたのも、全部久しぶりのことだった。

 

たくさんの人と話す機会がある。

色々なことを言う人がいて、色々な風に私を見る人がいる。

私はコンクリートで出来ているわけではないし、基本的には流されやすいから、こっちだって色々なことを考える。

考えて煮詰まって滞って、どうにもならないから眠れなくて。

 

私をかき乱した人たちは、この部屋の私のことなんて一つだって知らないくせに、本当に馬鹿馬鹿しい話だ。

 

改めて、私は誰かと関わることに向いていない。

小さな風でも、ともすれば自分の作った風でもあらぬ方向へ飛ばされてしまうような、つたない心構えのままだ。

 

悲しむこと、怒ることがそうであるように、たとえば笑ったり、楽しんだりすることも私は苦手なんだと思う。

感情がなくなればいいと幾度となく思っている。

私は平穏を愛しているのだ。

今日みたいに落ち着いた、無に近い気持ちでお米を研いで、炊飯器をセットして、卵を茹でて、パウチを温めて。

 

そういう穏やかさに憧れているのに、何か揺れ動く度に責め立ててくる大きな声は、あれは一体誰のものなのだろう。

 

静かな、午前二時の外が好きだった。

寒く濡れたコンクリート

イヤホンが守ってくれて、私は完全に一人で、酷く爽快な気持ちになる。

視力も悪くなって星は見えなくなったけど、真っ暗な空気に自販機の明かりが綺麗で。

 

冬の夜道は、朝帰りをした時の夜明けの空にちょっと似ていた。

やっていることは不健康なのに、心の底から健やかな気持ちなのだ。

もう今ここで死んじゃいたい!なんて考えるほどには、本当に気持ちがいい。

 

今回は久しぶりの暗闇だったけれど、毎日のように泣いていた学生時代と比べれば、独りの時間が随分と心地よくなった。

きっと、寂しさを自分なりに飼い慣らすことができているんだと思う。

諦めと似ているかもしれないけれど、今私が私の時間を愛せているのだから、それでいい。

キスやセックスもなしに抱きしめて欲しいだなんて、それはきっとわがままだろうし。

そもそも自分のことで精いっぱいな時点で助けてくれる人なんていないのだから、私はきちんと自分で立たなければいけない。

 

今、私は出来る限りの孤独を貫いているけれど、本当の意味でたった1人で生きられたのなら、どれだけいいだろうと思う。

誰にも影響されず、同じように私が誰かに影響を与えることもない。

期待することもされることもない。将来しなければならないことも、するべきことも。

そして誰にも看取られず、覚えられず、そっと終わってしまえたら。

きっとそれは完全な自由の姿なのだろう。

 

けど、それはやっぱり無理な話なので。

 

温まった体で文字を打つ。

私にできるのはせいぜい、自分の体と心を保っていく努力だけ。

ロコモコ丼も今飲んでいるコーヒーも、きっとそのためのものなのだから。

 

まがいものとダブルアイス

実家に帰っていた。

 

妹と出かけて、サーティワンのアイスクリームを買う。

新しく出たラブポーションサーティワンが気になっていたのだ。

昔からサーティワンで一番好きな味だった。

 

妹は要らないと言うけど、自分だけ食べるのも何なので、ダブルを買って半分こ。

2人して決められなかったので、もう一つは無難なポッピングシャワーを選んだ。

 

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昔はこうして一つのものを良く分け合った。

同時に、それをもどかしく思ったりもしていた。

「最後の一口」に価値があると感じて、取り合いの喧嘩をしたこともある。

 

もう一生食べれられないわけでもあるまいし、今思えば滑稽なことだが、当時は食べられてしまうのが本当に惜しかったのだ。

 

お姉ちゃんだから、なんて優しさだって、あいにく私は持ち合わせていなかった。

今でこそ、小さかった妹にはちょっと申し訳なく思ったりもするけれど。

 

優しい人に、ずっと憧れている。

 

生粋の優しさ。

誰かのお父さんの受け売りにはなるけれど、人の不幸を悲しんで、幸福を喜ぶことができる人。羨ましいなと思う。

他者のことを考える時、一度自分のことが挟まってしまう私にとっては、これがかなり難しい。

 

たとえば酷く喉の渇いている人が隣にいたとして、満たされた私がペットボトル一本の水を持っているとする。

 

きっと私は、その人にペットボトルを渡すだろうと思う。

でもそれは優しさからじゃなくて、そうすることが正しいと思っているからだ。

 

嫌だな。私がお金を払って買った水なのにな。この人がいなかったら飲めたのに。

 

ちゃんと、そう思っている。思っていながら、きっと私は正しいことをする。

こんな本音だって伝えるべきではないから伝えない。だってそれが正しいから。

 

それがいいことか悪いことかはさておき、当然、優しさとは対極の位置に私は立っている。

 

表に出すかどうかはまた別の問題だが、感情は生まれてしまうものだから、コントロールすることは出来ない。

感じてしまうものは、仕方がない。治しようがない。

きちんと分かっているから許して欲しいと思う。私は本当に酷い人だ。

 

優しくなりたいと思う。

ちゃんと喉の渇きを悼んで、心からその人を想って、水を差しだすことが出来たらいいのに。

 

アイスクリームの半分こに抵抗がなくなったのも、最後の一口で騒がなくなったのも、別に優しさじゃない。

大人になって、いつでも何度でもサーティワンを食べられることを知って、執着が薄れただけだろう。

酒で舌が鈍ったことも理由の一つなのかもしれないけれど。

 

からっぽになったカップ

喉が渇いただろうと、まるで優しさみたいにして、私は妹にお茶を差し出した。

大丈夫と、コンビニプリン

数日前から、無性にプリンが食べたかった。


真夜中、コンビニのプリンと対峙する。

何か特定のものが食べたくなったのは、随分と久しぶりのことのような気がした。

 

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同窓会に誘われている。

高校の部活の、いわゆるOB会だろうか。


もうそんな時期だなあと思うと同時に、色々なことが頭を巡る。


部活の、一つ上の先輩。

私は彼女と折り合いが悪かった。


今、比較的静かに暮らせている私だが、だからこそ彼女に会ってやりたいという欲がある。


会ってやりたいと思ってる時点で、きっと同窓会に行くべきではないのだということも、私は分かっていた。


渦中にあった時期からは、もう十年が経とうとしている。


時間が時間なだけ、それなりに折り合いはつけてきたのだとは思う。

たとえば彼女のSNSを覗かなくなったとか、やり返す想像をそこまでしなくなったとか。


それでも、いまだに私は彼女のことを見返したいのだと思う。


十五歳の、たった一年間の話だ。

もういい大人なのに、しがみついて滑稽だとは思う。


滑稽だけれど、これから先、どれくらいこの思いが薄まっていくかは正直分からない。

もしかしたらずっと、私は彼女のことをどこかで憎んだままなのかもしれない。


それもきっと、悪いことではないのだと思う。

人前で貶されたり、挨拶を無視され続けたことは消えない。

彼女が保育士になるための大学に推薦で合格した時、私がこの世を少し諦めたことも、この先一生変わることのない事実だ。


それでも、薄暗い感情に振り回されるといい結果にならないことを、私は知っている。


虚栄心、顕示欲、優越感。

そういう、人間の嫌な感情が出ることは自然なことだ。と、少なくとも私はそう思っている。

そこに振り回されなかったから人間の格が上がるとか、そんなこともきっとない。


ただ、衝動的な感情と根付いた気持ちを分けることは、自分を大切にすることに当てはまるとは思うのだ。


私も人間だ。

彼女と同じような性質を兼ね備えているし、被害者面をするつもりはない。


それでも私は人間だから、許せない私のことを認めたいし、できるだけ消耗しないよう、自分を助けてあげたい。


プラスチックのスプーンでプリンを掬う。

冷たい部屋に冷たい甘さ。

少し寒いけれど、苦さのあるカラメルが程よく舌で溶けてくれる。


小さく小さく諦め続けてきた世の中は、もうどうしようもないところまで来ている。


けれど、食べているプリンは美味しい。


今、私は自分の食べたいものをちゃんと聞いて、きちんと自分に食べさせてやることができている。

きっと私はそれで十分、よくやっている。よくやっているよ。


彼女の話ばかりになってしまったが、他のみんなは元気かなと思う。


きっと今年は会えないけれど、せめてそれぞれが幸せであればいい。

 

誰かの特別、誕生ケーキ

推しの誕生日だからケーキを買おうと思った。

ついでにティッシュとトイレットペーパーがなくなりそうだったから、それを買いに。

 

近所にケーキ屋さんは二つある。

一つは小さな個人経営のケーキ屋さん。

もう一つは不二家

ちょっと迷ったけど、結局不二家に行くことにした。

 

理由は三つ。

薬局が近かったのと、欲しいマカロンがあったから。

そしてチェーン店ということもあって、ケーキ屋さんにしては敷居が低かったからだ。

 

ケーキ屋さんは、いつも少し緊張する。

何となくかしこまった感じとか、やけに静かな感じとか。

 

ケースに並んでいるケーキたちを選んでる時、店員さんがこちらを見ている時の感覚も苦手だ。

店員さんにそんな意図はないと分かってはいるのだが、どうしても急かされているような気持ちになる。

 

同じ理由でコンビニのホットスナックも、悪い目を細めて遠くからじっと狙いを定めてからレジに行く。

サーティワンも、心の中で何度も何度もメニュー名を呟いて、力を込めて注文する。

でもやっぱり、一番恐れ多いのはケーキ屋さんだ。

 

だからケーキ屋さんに行く時は、本当に特別な時だけ。

 

思い返してみれば、最後にケーキ屋さんに行ったのは、大学院の受験の後だろうか。

絶対に落ちたと絶望しつつ、カラオケでお酒を飲んだ後、ケーキとたこ焼きを買って帰った気がする。

あの時は林檎か何かのケーキだった。

どん底の気分の中でも美味しかったことを覚えているから、やっぱりケーキの魔力は凄い。

 

そんな緊張する特別な場所に、ティッシュとトイレットペーパーを持った私はなんとも不釣り合いに思えた。

 

持ち帰る時も、ティッシュとトイレットペーパーは邪魔で、ケーキの箱が斜めになりやしないかと、一人ハラハラしていた。

幸い近かったから事なきを得たが、次に買う時はケーキだけのために出かけようと思う。

 

家に帰って作業をして、日付が変わる前にケーキをお皿に出した。

いつもなら手で食べたり紙皿で済ませるところだが、今日は特別。

 

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あらかた写真を撮り終えて、ちょっと迷ってフルーツケーキを冷蔵庫に戻し、スフレチーズケーキを食べることにする。

チーズケーキが推しの好物だったから。

 

フォークを入れてみれば、ふわふわと柔らかい。

口の中でも溶ける感覚。優しい甘さ。

美味しくて、あっという間にいなくなってしまった。

 

いなくなってしまったから仕方ない、ともう一度冷蔵庫に戻り、フルーツケーキを取り出してフォークを突き刺した。

 

ジュレに包まれたフルーツを食べつつ、ふと、幼稚園に通っていた頃、ホールケーキの箱を大事に取っていたことを思い出した。

 

もう中身はないはずなのに、箱が何だかとても特別で、素敵なもののように思えていた。

ひょっとしたら、今もそのあたりは変わっていないんじゃないだろうか、なんて思いつつ。

 

推しの誕生日。普通なら、何の変哲もない日。

だけど私にとっては特別で大事な日だ。

もっとたくさんのものを好きになれば、もっとたくさんの特別が増えるのかもしれないけれど、今はこれくらいで丁度いいんじゃないかとも感じる。

 

それに、まず大事にしてあげるべきは、四か月後に来る自分の誕生日だ。

 

その時に私が私のことをどう思えているかは定かじゃない。

けれど、もし大事に出来るのなら、今度は個人店のケーキ屋さんに行ってみたい。

 

少し気の早いことを考えつつ、軽い胸焼けを覚えてマカロンを冷蔵庫にしまうのだ。

 

何にも成れない月見バーガー

締め切りがあるようで、何もない毎日。

なんだか覚束ないからか、起床したら十三時を過ぎてしまっていた。

最近は感情の底が浅く、何も考えられないことが多い。

 

この無気力はエネルギー不足が原因なのだろうか。

ぼんくらな頭で出した、多分間違っている結論。

空腹の実感もなかったが、終了期限の迫る月見バーガーを買いに行った。

 

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自称ミュージシャンに出会ったのは昨日の話。

彼はどうやらベースに、歌声に、技術に、喧嘩の強さに、知識量に、文章に、ギャグのセンスに、料理の腕前に、人柄に、自分自身に、自信があるようだった。

 

テンプレみたいな人だと思った。

じりじりと、心臓にやすりを当てられているような気分。最悪だ。

 

彼曰く、あらゆることに関して自分ほど出来る者はいないのだという。

けれど周りが理解してくれない、馬鹿ばかりだと。

 

自信があること自体を悪だと思っているわけではない。

実際、少し話をしただけだ。彼の実力とやらを私は知らない。

 

なのにこんなにも痛ましさと恥ずかしさを感じてしまったのは、きっと彼にコミュニケーションを取る気がなかった、そして彼自身はコミュニケーションを取っていたつもりだったからだと思う。

 

これまで彼が何をして生きてきたのか、明日の昼間どこにるのか、先週何をしていたのか、家族構成、年齢、SNS

彼と話したのはほんの数時間だったが、その数時間で私はそれだけの彼を知った。

 

対して、彼は私が何歳なのかすら、きっと知らない。

そもそも、知らないことに気が付いていない。情報の差に気が付いていない。

 

話をしているようで、流れてくるばかりの一方通行。

ずっとずっと、こちらの言葉が届かない。

 

こちらの言葉が届かなければ、段々とその人は諦められていく。

たとえその人がどれだけ優れたものを持っていても、これだけは変わらないのだと思う。

誰だって相手にされないことに対し、どこかに苦痛を感じている。

独りよがりは諦められる、去って行かれる。

 

だからきっと、ミュージシャンとしての彼が支持されることも無いのだ。

 

想像する。

誰にも理解されないまま、彼は彼なりに、どこかで咲ける場所を探したのかもしれない。

探しているうち、どこかのタイミングで、経験自体が彼のアイデンティティになり得ることに気が付く。

そこで妥協したが最後、思考力が衰える。出来ない自分が見えなくなってしまう。

ただ出来ない自分は怖いままだから、素人相手に技術を自慢する。自分ではない誰かとの繋がりを自慢する。

 

彼もきっと、本当は分かっているはずなのだ。

どれだけ自分が優れていたって、優れていると思っていたって、自分から出したそれを評価するのは自分以外の誰かだ。

もちろん、すべてのことが評価される必要はない。

自分の中で生まれたものは、それだけで尊いものなのだから。

 

けれどきちんと形を得たいのなら、自慢できるほどの箔をつけたいのならば。

分かってもらおうと努力しなければならない。

これまでの人生がそうだったように、きっと自分のままでは受け入れられないから。

 

そんなことも出来ないで、つたない泥だんごを見せびらかして。

ヒリヒリする。ねえ、恥ずかしいな。

 

……と、一通りのことを思ったあと。

私には本当の気持ち悪さがやってくる。黒くて重い液体が腹の底に溜まっていく。

 

分かっている。

彼とは昨日が初対面。なんなら、もう二度と会わないかもしれない。

にもかかわらずこんなに揺さぶられているのは、彼の中に自分自身を見たからだ。

自意識過剰なミュージシャンが、私の中にも住んでいるからだ。

 

自分で自分を信仰して崇め奉り、それだけでは飽き足らない。

何の努力もしないまま、餌をチラつかせて他の入信者をただ待っている。

入信しない者たちを、ひたすらに見下しながら。

 

そういう本当の意味での滑稽さが私の中にもある。

こんなの、ただの同族嫌悪だ。

頭は何も出してくれないのに、吐き気ばかりが強くなる。

 

何もしてないのは、出来ていないのは誰よりも私だろうに。

 

今期は三回ほど食べた、大好きな月見バーガー

焼きすぎて固くなったベーコンを必死に飲み込む。

美味しいけれど、やはり体が重くなるばかり。

当たり前だ。何も出来ないのはきっと空腹のせいじゃない。

 

胸と腹の気持ち悪さ。本当に、最悪な気持ちだ。

せめて胃の方はどうにかしたいと、ぬるま湯でパンシロンを流し込むのだった。

秋の寂しさ、苦いカフェオレ

ようやく重い腰をあげ、スーパーに行った。

思い立ったから100均にも。

ずっと暗かったトイレの電球を変えてみたくなったのだ。

 

暗いオレンジ色の電球。

不便だけど使えるからと、この半年間放置してしまっていた。

白い200円のLEDは予想以上に明るくて少し驚く。

 

スーパーの収穫は、卵とハム、ベーコン、サンドイッチとカフェオレ。

本当はもうちょっと食べる物を買う予定だったが、あいにく食べたいものが浮かばなかった。

 

酷くお腹が空いたような、はたまたお腹が痛くて吐いてしまいそうな。

考えてぐるぐる歩いているうちに疲れてしまって、結局レジに向かう。

 

今は少し苦めのカフェオレを飲んでいる。

コーヒーの甘さは結構お腹に溜まるのだ。

それがいいことなのか悪いことなのか、それは分からないけれど。

 

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秋は寂しくなる季節なのかもしれないと思う。

 

毎年毎年、あまり得意ではない季節だった。

いつか慌ててバイトを始めたのも、困って病院に行き始めたのも、確かこの季節だった。

焦燥と憂鬱。本質の時期だ。

 

どうしたら楽に生きられるか、というのはよく考える。

よく考えはするが、底のある問いであることはもう十二分に分かっている。

あまり目を向けるべきではないということも。

けれど今は忙しさで誤魔化すことさえ難しく、色々と直視する。

 

本当は全部、不毛なことだと思ってはいるのだ。

この憂いだって季節のせいにしてしまえる。

嬉しいことも悲しいことも、楽しいことも苦しいことも、全部刹那的なものだ。

明日になれば、眠ることさえできたら忘れてしまう。

そこまで私の容量は大きくなかった。

 

ただ、寂しさは少し、その中でも手ごわい。

 

あなたが他者にそう出来ないように、あなたを応援してくれる人はいない。

あなたが他者にそう出来ないように、あなたを心から心配して、想ってくれる人はいない。

どこへ行こうと誰も助けてくれやしない。

他者は他者で、あなたはあなたで、何もかもをどうにかしていくしかない。

それはとても寂しいことかもしれないけれど、きちんと飲み込んで、納得しなければならない。

全部が全部、ここまで生きてきたあなたの責任だから。

 

何度も何度も縋って学んで、諦めたことだ。

今更どうも思わない、思わずにいたい。

 

それでも時々、誰かに頭を撫でてもらいたくなる。

何も生産できなくても、ただ地球を穢すことしか出来なくとも、それでいいよと言って欲しい。

 

私を余すことなく知ってくれる人が在って、その上でその人に抱きしめられたら。

そしてその人と全く同じ心で、その人を抱き返すことが出来たのなら。

それはきっととても幸せなことだろうと、ずっと夢に見ている。

 

酷く我儘に育ってしまったものだと思う。

つまりは今、とても寂しいのだけれど、この部屋には卵とハム、ベーコンしかいない。

期限以内に食べきることを目標に、とりあえず今日は眠れたら良い。