実家に帰っていた。
妹と出かけて、サーティワンのアイスクリームを買う。
新しく出たラブポーションサーティワンが気になっていたのだ。
昔からサーティワンで一番好きな味だった。
妹は要らないと言うけど、自分だけ食べるのも何なので、ダブルを買って半分こ。
2人して決められなかったので、もう一つは無難なポッピングシャワーを選んだ。
昔はこうして一つのものを良く分け合った。
同時に、それをもどかしく思ったりもしていた。
「最後の一口」に価値があると感じて、取り合いの喧嘩をしたこともある。
もう一生食べれられないわけでもあるまいし、今思えば滑稽なことだが、当時は食べられてしまうのが本当に惜しかったのだ。
お姉ちゃんだから、なんて優しさだって、あいにく私は持ち合わせていなかった。
今でこそ、小さかった妹にはちょっと申し訳なく思ったりもするけれど。
優しい人に、ずっと憧れている。
生粋の優しさ。
誰かのお父さんの受け売りにはなるけれど、人の不幸を悲しんで、幸福を喜ぶことができる人。羨ましいなと思う。
他者のことを考える時、一度自分のことが挟まってしまう私にとっては、これがかなり難しい。
たとえば酷く喉の渇いている人が隣にいたとして、満たされた私がペットボトル一本の水を持っているとする。
きっと私は、その人にペットボトルを渡すだろうと思う。
でもそれは優しさからじゃなくて、そうすることが正しいと思っているからだ。
嫌だな。私がお金を払って買った水なのにな。この人がいなかったら飲めたのに。
ちゃんと、そう思っている。思っていながら、きっと私は正しいことをする。
こんな本音だって伝えるべきではないから伝えない。だってそれが正しいから。
それがいいことか悪いことかはさておき、当然、優しさとは対極の位置に私は立っている。
表に出すかどうかはまた別の問題だが、感情は生まれてしまうものだから、コントロールすることは出来ない。
感じてしまうものは、仕方がない。治しようがない。
きちんと分かっているから許して欲しいと思う。私は本当に酷い人だ。
優しくなりたいと思う。
ちゃんと喉の渇きを悼んで、心からその人を想って、水を差しだすことが出来たらいいのに。
アイスクリームの半分こに抵抗がなくなったのも、最後の一口で騒がなくなったのも、別に優しさじゃない。
大人になって、いつでも何度でもサーティワンを食べられることを知って、執着が薄れただけだろう。
酒で舌が鈍ったことも理由の一つなのかもしれないけれど。
からっぽになったカップ。
喉が渇いただろうと、まるで優しさみたいにして、私は妹にお茶を差し出した。