実に半年ぶりくらいに米を炊いた。
随分前に実家から送られてきた米。
当時は新米だったはずのそれを、ちょっと心配しながら冷たい水で洗って、無印良品のロコモコを中心に色々と盛り付ける。
二十一時。ちょっと元気の出る時間だった。
ここ数日、少し沈むことがあった。
浅い呼吸しかできなくなったのも、酷い焦燥感も、泣いたのも、刺したくなったのも、けれどやっぱり後処理が面倒で辞めたのも、全部久しぶりのことだった。
たくさんの人と話す機会がある。
色々なことを言う人がいて、色々な風に私を見る人がいる。
私はコンクリートで出来ているわけではないし、基本的には流されやすいから、こっちだって色々なことを考える。
考えて煮詰まって滞って、どうにもならないから眠れなくて。
私をかき乱した人たちは、この部屋の私のことなんて一つだって知らないくせに、本当に馬鹿馬鹿しい話だ。
改めて、私は誰かと関わることに向いていない。
小さな風でも、ともすれば自分の作った風でもあらぬ方向へ飛ばされてしまうような、つたない心構えのままだ。
悲しむこと、怒ることがそうであるように、たとえば笑ったり、楽しんだりすることも私は苦手なんだと思う。
感情がなくなればいいと幾度となく思っている。
私は平穏を愛しているのだ。
今日みたいに落ち着いた、無に近い気持ちでお米を研いで、炊飯器をセットして、卵を茹でて、パウチを温めて。
そういう穏やかさに憧れているのに、何か揺れ動く度に責め立ててくる大きな声は、あれは一体誰のものなのだろう。
静かな、午前二時の外が好きだった。
寒く濡れたコンクリート。
イヤホンが守ってくれて、私は完全に一人で、酷く爽快な気持ちになる。
視力も悪くなって星は見えなくなったけど、真っ暗な空気に自販機の明かりが綺麗で。
冬の夜道は、朝帰りをした時の夜明けの空にちょっと似ていた。
やっていることは不健康なのに、心の底から健やかな気持ちなのだ。
もう今ここで死んじゃいたい!なんて考えるほどには、本当に気持ちがいい。
今回は久しぶりの暗闇だったけれど、毎日のように泣いていた学生時代と比べれば、独りの時間が随分と心地よくなった。
きっと、寂しさを自分なりに飼い慣らすことができているんだと思う。
諦めと似ているかもしれないけれど、今私が私の時間を愛せているのだから、それでいい。
キスやセックスもなしに抱きしめて欲しいだなんて、それはきっとわがままだろうし。
そもそも自分のことで精いっぱいな時点で助けてくれる人なんていないのだから、私はきちんと自分で立たなければいけない。
今、私は出来る限りの孤独を貫いているけれど、本当の意味でたった1人で生きられたのなら、どれだけいいだろうと思う。
誰にも影響されず、同じように私が誰かに影響を与えることもない。
期待することもされることもない。将来しなければならないことも、するべきことも。
そして誰にも看取られず、覚えられず、そっと終わってしまえたら。
きっとそれは完全な自由の姿なのだろう。
けど、それはやっぱり無理な話なので。
温まった体で文字を打つ。
私にできるのはせいぜい、自分の体と心を保っていく努力だけ。
ロコモコ丼も今飲んでいるコーヒーも、きっとそのためのものなのだから。