ざわざわして眠れない。
懐かしいラベンダーの匂いがするホットアイマスクが、ただのアイマスクになるまで目を瞑る。
それでも考えが止まなかったので、強制的に朝ごはんを用意する。
午前4時。多分朝と言っても怒られないだろう。
お湯を沸かしている間、食パンにバターをたっぷり塗っておく。
温まったオーブンレンジにパンを入れて、沸いたお湯でインスタントコーヒーを作る。
朝は「目が覚めるから」、夜は「どうせもう効かないから」なんてあべこべの言い訳をしながら、なんだかずっとカフェインと友達でいる。
焼き上がったトーストに、いちごジャム。
立派な朝ごはんだ。
かぶりつくと、ふわりといちごの酸味が口に広がる。
待ち切れずに焼き目の薄いトーストは、くしくもやわらかく、甘さにお似合いだった。
たっぷりのいちごジャム。
少し前からジャムを塗ったトーストを見ると、何となくチェンソーマンを思い出すようになってしまった。
もっとも、何かで流れてきたそのワンシーンしか見ていないのだけれど。
眠れない。
温かくなってきたからか、最近、寂しく思うことが増えた。
寂しさはいつだって強敵だなあと思う。
暗くて湿っているし、触るととにかく寒い。
どうにかこうにか手袋をはめて、ある程度折り合いをつけてみるも、やっぱり時々暴れ出しそうになる。
全人類、皆がこの寂しさを抱えていて、皆が持て余しているのかなあとぼんやり思う。
たとえば、買い物だったり仕事だったり、アルコールだったり人と会ったり。
けれど、やっぱり寂しさは強敵だ。
きっとそんなことでは誤魔化されてくれない。
たとえば「寂しいから恋人が欲しい」なんていう話をよく聞くけれど、もし人と付き合ったとして、それで本当に寂しさを補い合えるのなら、確かにいいものかもしれないと思う。
実際、人と繋がることでしか得ることの出来ない安心感があることも事実だ。
人と人が関わることは、本来きっと温かくて健やかで、とても幸せなことなんだろうとも思う。
けれど大抵、私の場合は寂しさが増幅して終わる。
眠れない夜に、頼れる存在が最初からひとつもないこと。
眠れない夜に、会いたい人がいるのにひとりぼっちなこと。
どちらも寒くて暗いどん底ではあるけど、やはり後者の方が私にとってはつらい。
それに、寂しさは、誰かに、何かに補ってもらうのでは意味がないのだ。
だって、そもそも寂しさは何かを失ったから生まれたわけじゃない。
元々ひとりぼっちの中から生まれたものだ。
仮に私が地球にひとりの生命体で、誰とも出会ったことなく、触れ合いという概念を知らなくとも、きっといつか寂しさを感じていたと思う。
きっと私達は、生まれた時から寂しさを持っているのだ。
だから多くの人に会ったって、アルコールで浮かせたって、その寂しさは絶対に自分の巣へと戻ってくる。
ならば自力でお世話した方が早いんじゃないかと思うけれど、その肝心の飼い方が分からなくて、長年頭を悩ませている。
寂しさは一体何を食べるんだろう。
楽しいこと、嬉しいこと。
色鮮やかでかわいらしい感情を与えれば、大人しくなってくれるのだろうか。
でもそれはやっぱり、誤魔化すのと同じだ。
それなら成長させること自体が悪手で、餓死させることが正解なのか。
与えないとなると、考えない、想わないことがきっと正しい。
けれどなんだかそれはそれで悲しいような。
大前提として難しい。
寂しさを殺したいのか、それとも共存したいのか、いまいち自分でもよく分からない。
ただ、生まれたタイミングが同じなのだ。
寂しさが死ぬ時は、きっと私も息をしていないんだろう。
午前5時。
そんなことを考えつつ、ふとジャムの瓶を見たら消費期限が2ヶ月ほど切れていたことに気がついた。
熱してあるとはいえ果物。
ちょっとまずいんじゃないかと思いつつ、もう遅いので平らげる。
あれって本当にいちごの酸味?
明日お腹痛くなったらどうしよう。
時すでに遅し。後の祭り。
でも腹痛もひょっとすると、寂しさにはいい薬になるのかもしれない。
そんな頭の悪いことを考えつつ、私はまだ若干熱いコーヒーを啜るのだった。