食べ物と私

食べます。

ちょっと間違えた

毎日がただ過ぎていくような感覚。

少しまずいなと焦る時期。

 

考えてみれば以前花屋のバイトを始めたのも、10月とか11月とか、そんな時期だったような気がする。

秋は焦燥感。多分、ちょっと悪い時期。

 

朝、昨日仕込んでいたサンドイッチを半分に切る。

本当はもう少し見栄えが良くなるはずだったのに、切り方を間違えたせいでハムがぺちゃんこだ。

 

f:id:zenryoku_shohi:20221013081632j:image

 

これまで何もやってなかったわけじゃないと思う。

小学校、中学校、高校、そして大学。

随分と長い時間、組織にいたとは思うけど、その時々に悩みがあったし、脳の小さい私はその度にいっぱいいっぱいになった。

 

一貫して目指していた場所なんかない。

そんな場所を探すより、毎日会う人とどう接するか、一週間先のテストをどう乗り切るかがいつだって先行したし、少なくとも当時の私にとっては重要だった。

 

それが悪いことだとは、今も思っていない。

 

朝ご飯。

泥水みたいなインスタントのコーヒーを飲みながら、少しマヨネーズの多かったたまごサンドを齧る。パンの水分が抜けている。

 

この二年間だってそうだった。

多分、その度々に私は一生懸命だった。

そう思いたいだけじゃない? なんて頭の声が囁いてくるけれど、ここに目を向けたらキリがないのでそっと耳を塞ぐ。

 

この二年の、この二十三年間の成果は、進展は、なんて問われても難しい。

だってただ、私は歩いていただけに過ぎない。

 

強いて言うなら二年が成果だし、二十三年間が証だ。けれど、大体そう聞いてくる人はそんなことは前提でそれ以上を求めてくる。

 

楽しいことだけしていたいと思う。

私が一番楽な方法で、何の苦労もなく過ごしていけたらそれが一番なんじゃないかと。

 

でも、よく分からないけれど、苦労をしないことに対して罪悪感を覚えてしまう。

苦しむことが美徳だと、私はきっとどこかでそう思っている。

多分、そんなの絶対に違うのに。

 

眠らないことが増えた。

眠れないんじゃなくてずっと眠たい。

けれど寝たら今日がリセットされて明日になってしまうのが本当に嫌で、きっとだらだら起きてしまう。

 

明日に行きたくない。

明日を生きたくない。

 

生きることが後ろめたいから、何かしてないと満足できない。

 

一応別の執筆は期間内には間に合ったけど、まだ終わってはない。

やらなきゃいけないことは沢山ある。

買ってくれる人がいる。

私にならない執筆。私じゃ見てもらえない。

更新は止まってしまった。

 

色々なことがぐちゃぐちゃで、永久に整理なんかつかないような気がしている。

私が私だと胸を張って言えることが、あまりにも少なすぎる。

 

これでいいのか。いや、こうするしかないのだけど。

 

朝。準備は整っている。

ご飯は食べてるんだけど

少し違う書き物をしていて、このブログは不定期更新になっている。

丁度先月末で1周年を突破したから、ある程度の目標に達したこともある。ちゃんと続けられて良かった。

 

九月。

色々なことがちょっと立て込んでいて、だからつまりちょっと落ちている。

 

色々な方法で皆、生き延びていると思う。

自分を魅せるツイート、画角、トピック、色彩、歌声、そして人間性。ちっちゃい画面の中に、それでも魅力的な人が溢れている。

 

私には何もないから多分ちょっと自分を殺すことが関の山なのに、だってそれすら出来なかった。

私はどうやらちょっと頑張らないと人の形を成せないらしいと知ったのは、ここまで生きて来てつい最近の事。あんまり頭は良くないのだ。

 

呼吸が出来ないから、私は私を殺さないように少し足掻いてみるけれど、息をするごとに罪悪感が蔓延る。なんだか矛盾。

周りはちゃんと自己を殺して地球に馴染んでるのに、何であなただけが我儘なんだろう。なんで何も持ってない癖に、あなたは何も諦められないんだろう。

後ろ指を指しているのは間違いなく自分だった。

 

この小さな部屋で人生が完結してしまえばいいのにと、切に願う。

 

暗い場所に目を向ければ、私は女というだけできっと色んな意味で弱者なんだろうし、もう守ってくれるものはないように思う。いや、これまでだって、守られていたのだろうか。あんなにどうすればいいか分からなかった学校生活は、それでも守られていたのだろうか。

 

あの時尊敬していた人だって、何となく倫理観を欠いた人になっていて、純粋だねって誉め言葉みたいに馬鹿にされて、でも私だってその人たちのことを見下していて。

 

本当に気持ちが悪いと思う。

結局人間。自分が主軸でしか、自分の時代の中でしか生きていけないのに、なんで群がろうとしてしまうんだろう。そしてそんな人の一部である自分が心底気持ち悪い。

 

26歳で自殺しようと思っていたけど、どうせ死ぬなら好きに生きようと思った、それが二年前。色々あって自殺すら出来なくなってしまった。

一面性だけで生きていたいけど、なんかもうよく分からない。こんな健常者だから笑われてしまう。

 

これから若さという武器を無くし、元々醜い内面をコーティングしている外面だってどんどん醜くなっていって、また生きづらくなって、辛くなって。

何の意味もない八十年を、どうしようかなんて。悲しくなってしまうじゃないか。

 

こんな歳をして、ティーンみたいな悩みで笑ってしまう。

小学校に行きたくなくて泣いていた朝から、私は多分ずっとずっと成長できていないままなのだ。

 

撫でるだけみたいな認知なら、私の元から去って欲しい。

私から名前を奪って、人格も、繋がった縁も、全部なくなってくれたなら。

全員が私のことを忘れた世界なら、きっと私はスクランブル交差点を最期の場所に選ぶことだって出来るのに。

 

それが出来ないのなら、せめて愛してくれないかと思う。

最後の我儘にするから、誰か愛してくれないか。

絶対に私を傷つけないと誓って、私を愛してくれないか。

 

上手く書けない。元から。

一人の部屋で私は今日もきっと何にもない。

こんな私を、誰も知らない。

ふきげんかぼちゃプリン

かぼちゃプリンはいるか、と聞かれた。

 

いるか入らないかと言われたら、それは要る。

要ると答えたら、じゃあ作るね、と言われた。

相変わらず行動力がすごいなと思う。今まだここにかぼちゃプリンは存在していないらしい。

 

プリンと言えば、昔よくスーパーに車販売式のプリン屋さんがあったと思う。

クマのマークが目印のプリン。

たまに買ってくれるそれを私はとても好んでいたけれど、いつの間にかその車は来なくなった。

それと共に家族の記憶からもプリンは消えたようで、母はもうその存在を覚えていないようだった。

 

かぼちゃを濾しているのだろう、キッチンからいい匂いが立ち上ってくる。

 

母は人の為に料理をするのが好きなんだと思う。

私がそう思いたいだけなのではなくて、多分、本当に。

私は私のために作った料理が世界で一番美味しく感じるけど、きっと母はそうじゃない。

人に食べてもらうことが幸せであるように思える。

 

料理をしている時の母はいつも楽しそうだった。

というか、料理に何か強い気持ちを持っているのだろう、料理を失敗した時、母はかなり不機嫌になる。

基本的になんでも美味しい私はそれが本当に嫌だった。

 

数時間後、忘れた頃に母がカステラのような見た目のプリンを持ってきた。

何だか納得がいかなかったのか、少し表情が曇っているような。

 

f:id:zenryoku_shohi:20220830104912j:image

 

添えられたスプーンで掬う。

ザラザラとした舌触り。しっかりとかぼちゃの味が残っており、コンビニでいつか食べたようなプリンに似ていた。つまり完成度が高くて美味しい。

カラメルも少し苦味が効いており、私好みだった。

 

そう私は思うのに、母は少し卵が分離したことが許せなかったらしい。

美味しいと言っている傍で、卵が小さかったのかな、とか、前作った時はもう少し上手くできたとか、ぶつぶつ母は何か呟いていた。

 

せっかく美味しいのに自分で台無しにしてしまっているような気がするけれど、母にとっては私の美味しさより大事なものがあるらしい。

 

もっと気楽に楽しめば、少し気を抜いてみればいいと思うのに、そのこだわりが周りを巻き込んでいることを知らない。

 

カステラのようなプリン。

形状からしてもまだ沢山あるはずだ。

これがテーブルに出てくる度、母はまた一度の料理を悔やむんだろうか。

 

私が母の料理を好いていても、きっと母は喜ばない。

自分で完結できるだけの気概がないのなら、それもちょっとどうかと思うけれど。

ラムネと犠牲

そろそろ家に帰る。

買い物に連れ出された。持ってきたキャリーケースに食べ物を詰めて帰れ、ということらしい。欲しいものを買えと。

 

あったら便利なものなんて腐るほどあると思うのに、いざこう言われると何が欲しいのか、何があったら助かるのか、自分でも分からなくなる。

とりあえず言われるがまま、お菓子や缶詰、それからカップ麺なんかをぽいぽいとカゴに入れていく。

 

そう言えば来年から仕送りはなくなるのだろうか、とちょっと気がかりになったりする。

農家をしている祖父と祖母。そこのお米が食べられるのもあとどれくらいなのだろう。

私はスーパーでお米を買ったことがない。

 

駄菓子のコーナー。

青緑色の袋を二つ手に取って、またカゴに投げ込んだ。

森永のラムネ。私は昔から変わらずこれが好きだった。

 

f:id:zenryoku_shohi:20220831231711j:image

 

小さい頃はラムネ型の容器が嬉しくて、顔を探すのが楽しくて買っていたそれ。

今となってはこうして袋に売られているものを、集中力を上げるために買うようになってしまった。

脳が疲れた時に糖分がいいと言うが、チョコなんかはリラックスしたい時に欲してしまうから、ラムネのような爽やかさがある方が私にとっては嬉しいのだ。

実際、ブドウ糖は脳に良いと聞く。

 

結局カゴにぱんぱんになった食品たちをセルフレジに通しつつ、これからこれをキャリーケースに詰めなければならないのか、と考える。

一人になりたいけど、怠惰なので帰るのも随分億劫だったりするのだ。

 

勝手に料理が出てくる生活ももうそろそろ終わる。

誰が見ているわけでもないのに四六時中付いているテレビも、お風呂を急かしてくる人も、正しい生活習慣も、全部終わってしまう。

 

特に寂しかったり、そういうことはないけれど、ただ次に帰ってくるのはいつになるんだろうと思ったりする。

多分、今年も私はお正月に実家へは帰らない。

 

買い物から帰り、パソコンを開いてラムネを口に含む。

こうしてパソコンに向き合っている時間の静けさもまた元通り。

その静けさを守るため、私は会う人を選んで、話す人を選んで、ちゃんと私を作っていかなければいけないのだと思う。

 

そのため、何を犠牲にするかはしっかりと考えなければならない。

 

がり、と口の中に特有の清涼感が広がる。しゅわしゅわと爽やかな甘さが溶けていく。

考えることが多い。ゆっくりでいいと思ってはいるけれど、やっぱり人と会うと心は揺れる。

 

大丈夫、と。独りごとの言えない今、心の中で呟いてみる。

これから私はどうなるのか。私のペースで見定めていきたい。

 

 

 

大人の鯛茶漬け

久しぶりに友達と会った。

車で家まで迎えに来てくれる。やっぱり運転している姿を見ると大人だなと感じる。

 

車の中、懐かしい音楽が流れる。

中学時代、私達が一緒に演奏した音楽。

 

彼女とは小学校、中学校と仲良くしていた。

特に中学時代、私と彼女は吹奏楽部の副部長と部長をやっていた。

 

懐かしい時代だ。

まだ色々なことが未発達の中学生。本当に色々なことがあってちょっと大変だったけれど、まああの頃はあの頃で良かったのかな、なんて思う。

 

女同士の揉め事はちょっとレベルが高くなっただけで無くなりはしなかったけど、私達もきっとあの頃より、色々なもののあしらい方が上手くなった。

 

私のことはさておき、友達は本当に、すっかり大人になっていた。

会社のことを尋ねてみれば、曰く、諦めることがコツだと。

どうやら入社初日にそう教わったらしい。

大丈夫なのか心配になったが、そういうものとして割り切っているようだった。

何だか少し、距離を感じる。

 

それから車を走らせること数分。

目的のランチに着く。

開店して三十分も経っていないのに名物のレアかつは売り切れてしまっていた。

でも、私はこっちが食べたかったので鯛茶漬けを選ぶことにする。

 

f:id:zenryoku_shohi:20220830121031j:image

 

おひつからご飯を継ぐ形で、なんとなく一緒に食べている感じが強くなる。

鯛にお出汁をかけると、ぎゅっと身が小さくなってぷりぷりの食感が口の中に広がった。

どれから食べていいか分からなくてあちこちつついているうちに、ぽつぽつと話は弾んでいく。

 

今思えば、彼女と会ったのは二年ぶりな気がする。

これだけ長く会っていなかったのも会社の規定のおかげらしい。

 

大人になるとはなんだろうと思う。

 

私は色々なことを諦め切れなかったし、多分これからも諦められない。

むしろ今までは色々と我慢をしてきた方だと思う。

それが少し辛くなって、私は私として生きるようになった。

だからもしかしたら、どちらかというと今までの方が大人だった気がする。

 

でも、私はもう何も諦めたくないし、私を殺したくなかった。

 

どんどん社会から外れてしまっている気がする。

きっと在り方としては彼女の方が正しい、というか、真っ当なのだろう。

私は真っ当が苦しい。

 

おひつのご飯をお代わりする。

久しぶりに米を食べたと話す彼女は、何だか遠く、とても立派に思えてしまう。

 

半年後、私はどうなっているのだろうか。

数年後、私達はどうなっているのだろうか。

何でもいいし、どうでもいいけれど、私たちが幸せであればいい。

勝手に出てきた味噌焼き茄子

実家にいるとご飯が出てくる。

今日は目を覚ますためにスマホをいじっていたところ、唐揚げが出てきた。

 

朝10時のことだ。

何ご飯なのかはよく分からなかったがとりあえず食べた。食べる私も悪いのだが。

 

そしてその後、すぐに移動。

祖母、祖父の家に行けばもっとご飯が出てくる。

ファミリーサイズのお寿司が用意されていれば、私も断るわけにはいかない。

二巻だけが四巻、五巻と増え、結局普通に食べてしまう。

ちょっとしたバグだと思う。

 

実家にいる時はかなり体重についたら悩んでいたように思う。

しかし、今となっては太るのは当たり前だと思う。というより、こんな生活をしているのに太らない母の方が稀な存在のような。

 

あったらあるだけ食べてしまう私も私だが、料理好きな母の元に生まれたのは本当に運の尽きだ。

 

実家に帰って思うが、やはり母は子供に干渉したい生き物なのだと思う。

風呂に入るにも急かす。要らないと言っているのにご飯を作る。いいと言っているのに服を買う。

 

その気持ちがどこから来るのか、私には分からない。

多分、親にならなければ一生分からないのだと思う。

それを少しだけ億劫に思ってしまうのは、きっとただの子供心だ。

 

とにかく、許容量を超えるほどの世話を焼かれてしまっている実感がある。

しかし胃は上手く順応してしまうので、ちゃんとお腹は空いてしまうのだ。

 

夜、お腹空いてない?との言葉にそこそこ空腹だった私は頷いてしまう。

そして出てきたのが、ナスの味噌焼き。

 

f:id:zenryoku_shohi:20220826220826j:image

 

こんな大きなナスも私は買えないし、この味噌だって何味噌なのか分からない。

つまり、絶対に一人では食べられない料理である。

 

箸を通せば、とろとろのナス。

食べるというより飲むというほうが正しいほどだった。

思わずビールに手を伸ばす。全く、本当に堕落している。

 

母はビールを飲まなかった。

曰く、妹がバイトに出ているから飲まないらしい。

何となく、妹にとってらそういう気遣いも重いんだろうな、と思う。

寝不足だと訴える母は、家族の誰よりも早く起きることを心掛けていた。

 

これを責任感と呼べば、鼻を高くしてしまう母なのだ。

母が好きでこれをやっているのならまだいいのだが、やはりこういう生活をしていけば少しずつストレスは溜まっていくものだと思う。

それをぶつけられるのもまた、私達なのだ。

 

自分の予定がないのなら好きな時間に起きればいいし、好きな時間に眠ればいい。

飲みたいものを飲んで、好きにすればいい。

だから、自分の情緒を守ってほしい。

 

そう思ってしまうのもきっと、私が甘えているからなのだろうと勝手に結論づけ、また私はビールを注ぐのだ。

 

利己的野菜カレー

昼間飲んだトマトスープにカレーを入れたらいいんじゃないかと提案したところ、昼ごはんがカレーになった。

 

朝、昼、夜、とちゃんと食べるのは久々であるような気がする。それがいいのか悪いのかはちょっとわかりかねるけど。

 

スマホをいじっている間、母が話しかけてくる。

多分誰かがいる状況での沈黙に耐えられないのだと思う。つまりはそこまで私達は親しくないということで。

 

しかも振ってくるのは将来の話だから、余計にタチが悪い。

多分、親という生き物は子供の将来が気になるんだと思う。

得意の想像をしようとすると頭にかすみがかかったようになってしまうから、多分私も上手いこと母を受け入れられていないのだけれど。

 

曰く、別に好きに生きてもいいけど、妹に迷惑がかからないように生きろということらしい。

何かあった時に責任を負うのは先に死ぬ親ではなく妹だと。

 

回りくどいような気がする。

言っていることは正論だが、多分母が言いたいことはそこじゃないだろう。

「あくまで私はあなたの生き方を許すけど、他はどうかな?」みたいな言葉にすごく心が荒れてしまう。

 

きっと一番私を認められないのは、母親なのに。

 

第一、誰かに迷惑を掛けないようにと、そんなことばかり考えて今まで考えて生きてきた気がするのだ、私は。

少なくとも、誰も自分の為に生きていいとか、好きなように生きていいとか、そんなことは言ってくれなかった。

 

だからこそ私は、私の思うように生きていいと。

そう言ってあげると決めたのだ。

 

この期に及んで他者を枷にしようとしてくる姿勢に、いっそ嫌気さえ覚える。

 

しかし、多方面におせっかいな母親。

そういう生き物なのかどうかは分からないが、やはり頼んでいないのにカレーが出てきた。

 

f:id:zenryoku_shohi:20220825235638j:image

 

お肉なし、えのきにおくら、トマトににんじんが入った野菜満点のカレー。

ちょっと辛めで、粘度があって、手作りのカレーの感じがあって美味しい。

五穀米を使っているところもなんだかお洒落な母らしかった。

 

身内に対して様々な感情を抱くのは当然だと思う。

ただそれが、生まれながら「この人に従わないと生きていけない」と考えている、いわゆる本能によるものなのか、自分で考えてのことなのか、どこの線引きになっているのかは分からない。

 

分かっているのは私が母に対してまだ認められる嬉しさを感じてしまうことと、なるべく母に会いたくない気持ちがあることだ。

 

こんなに色々なことを言ってなお、母は長く私に帰省してほしいと思っている。

私もこの人も、全くどこまでも利己的だった。