お弁当を作る時は機嫌が悪い。
最近気が付いた法則である。
そりゃそうだ。私にとって唯一の安寧の地は家なのだから。
最近は寒さのせいか、輪をかけて気力が湧かない。
本音を言うと何もしたくない。
けれど寒さのせいと、原因もなんとなく分かっているから、私は身を起こす。
寒いのなんかみんな一緒なんだから、なんて言わない。
寒いのに、私はよく頑張っている。頑張っている。
ステンレス製、銀色のキッチンは冷たい。
せめて白く塗装されていたらいいと思い、頭で描いたそれが実家のキッチンであることに気が付く。
今年も年末年始は帰らない。
何か月前に作ったのかも忘れてしまった、冷凍の鶏肉のクリーム煮を二つ、こちらも冷凍、ピーマンの塩昆布炒めと一緒にレンジにかける。
味の薄い炊き込みご飯も一緒に。
卵焼きをまきながら、ぼんやりと疲れていることを感じる。
何時だって私は疲れている。家に居たって帰りたい。
食べる行為は生きる行為だと、以前誰か、多分、Youtuberのにゃんたこさんが言っていた気がする。
だから、たくさん食べる人は魅力的に映るのだと。
樹木希林さんは、もし最後の晩餐があったとして何を食べるかを聞かれた時、何も食べないと答えたと、どこかで聞いたことがある。
生きる分のエネルギーは要らないから、と。
私はずっと死にたがっている。
こんなブログで言うのも何だが、死にたい。それはもう、昔から。
特に、死にたい気持ちを悲観的にとらえている訳ではない。
ちょっと困ったな、というくらいだ。
それでも、現実的ではないのだ、死は。
人が一人死ぬと、なぜか大勢の人に労力がかかる。そういう仕組みになっている。
多分家族や友人も悲しむだろう。さすがに、少しの間だけは。
それに普通に死ぬのは怖い。
だからきっと、私は死なない。ただ、死にたいだけ。
昨夜床にひっくり返しつつ、なんとか完成させた蒸し鶏も合わせて、むぎゅ、と弁当箱に詰める。
味気のない、茶色い弁当。
この行為だって紛れもなく生きることだ。
私は食べものが好きで、最後の晩餐は絶対に美味しい物が食べたくて、自己破壊衝動に駆られたって、「私の血の付いた包丁で料理するのは何だかなぁ」と、思いとどまったりする。
強欲で、しっかり元気だ。
健康体のまま、私はきちんとご飯を食べる。
健康なまま、もうずっと自身の死を祈っている。
ひどく滑稽だ。何もかもが矛盾している。
こんなちぐはぐな自分を、私はきっと抱えきれずにいるのだろう。
もう一度言うが、私は健康だ。
健康な部分があるから、きっと私が自死を選ぶことはない。
分かっている。見えているから。
だから今日も、私はこの一日を乗り切るだけなのだ。