すっきりと起きられない、特に起きる必要もない朝。
きちんと朝食を取らなけらばならなくなって、とりあえずトースターをセットする。
昨夜のスープが余っていたな、と思いつつ顔を洗っていると、そのスープが入っていたはずのお皿が洗われている。
同居人の空腹が夜中に暴れてしまったのだろう。
冷蔵庫にはレタスとキャベツもあるが、どうもそんな気分にはなれない。
結局、冷たいそこからハムと卵を取り出した。
そう言えば、目玉焼きを作るのは随分久々である気がする。
オリーブオイルを敷いたフライパンにハムを乗せる。
思いのほかじゅわわっと熱い音がして、慌てて卵を落とした。
相も変わらずハムの上をつるつると滑ってしまい、上手く卵は落ち着いてくれない。
ハムに十字の切り込みを入れると良いとどこかで聞いたが、面倒な私はそれを怠り続けている。
それにしてもどうにかならないか、と、用なしになった卵のカラで黄身を真ん中に寄せてみる。
しかし、横着が祟ったのか、ぷつり、と、黄色は儚くも零れだしてしまう。
やってしまった。
まあ仕方ないか、と、もう一つの卵は慎重に扱い、何とか完成。
崩れた方の卵を私の作業机に置く。横には新作のマウントレーニアも一緒に。
例えば今日のように、目玉になれなかった目玉焼き。
オムライスで、卵の布団が崩れてしまった時。
ハンバーグが上手くまとまらなかった時。ベーコンが五枚入りだった時。
私はいつも、下手な方、少ない方を自分のお皿に分けている。
あくまで体感だが、きっとそうする人が多いようにも感じる。
何でだろうか。
作った方の責任だから?ちょっとでも相手にいい格好を見せたいから?
いや、きっとそんな大層な理由は誰も持ち合わせていない。
それでも作った人は、自然に、ごく当たり前のように。
なぜか少しの不幸を肩代わりするのだ。
大げさに言えば生まれた時から決まっているような、そんな人の習性であるような気もする。
そんな残念な目玉焼きを。一口。
やはりいつもと味は変わらない。焼き加減だって、ちょうどよいくらいだ。
そう、結局味は一緒である。
自分が作ったものに限り、相手の皿の見た目がいいからと言って、不満を持ち合わせる人も少ないのだろう。
しかし立ち止まって考えると、少し不思議な光景であったりもする。
私の根底に備わっているのは、押しつけがましい優しさなのか、歪んだ謙虚さか、それとも低い自己評価なのか。
そんなどうしようもないことを考えつつ、マウントレーニアにストローをさす。
甘い甘い、まるで溶けたアイスのような味が、そっと味の記憶を侵していくのだった。